【歌詞が良かった曲】旅立ち/adieu
「旅立ち」というタイトル。上白石萌歌の歌手名義adieuによる曲。
作詞作曲はバンドbetcover!!などを手掛ける柳瀬二郎。
旅立ち - song and lyrics by adieu | Spotify
歌詞全文は以下の通り。
[1番]
台所で涼む虎 私は川を流れてる
隣の人が手を振って 縄を垂らして降りて行く
汚れた雲が流れてる
大体君はまだ未成年でしょう
乾きかけた紐を引っ張って
応える景色に胸がいっぱい
いい加減旅するのやめて
大人になれたらいいのにね
日暮れには笛の音
[2番]
あなたはいつも不安そうに 瞳の奥を輝かせて
夢の名残を追いかける 届くことは無いのにね
私はパリの白い虎 小さな素朴な好奇心
溶けかけた心を引っ張って
応える景色に胸がいっぱい
いい加減旅するのやめて
裸になれたらいいのにね
日暮れにはあなたの声
いい加減邪魔するのをやめて
私になれたら それから
日暮れには誰も知らない
なんとなく意味が分かるような分からないような、切なげな歌詞。
柳瀬二郎は「現実逃避の先にある現実を知り始めた人間or人間以外の何かの歌」であるとコメントしている。
「人間or人間以外の何か」と言っている通り、歌詞の中には「虎」が登場し、2番では「私はパリの白い虎」と歌っている。
歌詞の様々な比喩が示す所を明確にしながら、以下詳しく読んでいこうと思う。
1番
台所で涼む虎 私は川を流れてる
隣の人が手を振って 縄を垂らして降りて行く
汚れた雲が流れてる
大体君はまだ未成年でしょう
乾きかけた紐を引っ張って
応える景色に胸がいっぱい
比喩がいっぱいありそうだ。分からない部分が色々ある。
全体的に旅の情景、非現実的な情景であるが、「台所で涼む」とか「君はまだ未成年でしょう」とか現実味を表す文言が所々挟まっているのが、違和感を誘う。
隣の人が手を振って 縄を垂らして降りて行く
「降りて来る」ではなく「降りて行く」なので、「隣の人」は私の元から離れて去ってしまうということだろう。
続きのサビを先に見てみよう。
いい加減旅するのやめて
大人になれたらいいのにね
日暮れには笛の音
なるほど、どうやら先の歌詞の「隣の人」は「旅」から離脱したのだ、と分かる。
一方で「私」は未だ旅を辞められない、大人になれていない状態というわけである。
それも、「川を流れてる」「乾きかけた紐」というように、元気に満ち溢れた旅人というよりは、既に余程疲れて心を浸らせている雰囲気がある。
纏めると、周りの人が旅を辞めて大人になっていく中、自分は未だ旅から抜け出せずにいる。という感じか。
2番
あなたはいつも不安そうに 瞳の奥を輝かせて
夢の名残を追いかける 届くことは無いのにね
突然率直な文になった。
ここで、「あなた」と1番の「私」の状況が瓜二つであることに気付く。
「不安そうに」夢の名残を追いかける「あなた」。
「大人になれたら」と思いながらも旅の輝きに見惚れている「私」。
もしも「あなた」=「私」であると思うなら、1番の「旅」とは「子供の夢を追うこと」であると分かる。
そして2番ではさらに、「届くことは無いのにね」と結んでしまっている。
つまり、自分の状況を「あなた」と呼んで客観視し、現状の延長線上が悲観的であることに自分自身でも分かってはいる、ということになる。
さらに続く歌詞も、重要なキーになっている。
私はパリの白い虎 小さな素朴な好奇心
溶けかけた心を引っ張って
応える景色に胸がいっぱい
なんと「私」=「虎」でもあった!
さらに1番との対応を考えれば、「乾きかけた紐」=「溶けかけた心」であり、溶けかけた心とは何かといえば、「小さな素朴な好奇心」ということになる。
以上を踏まえて1番の歌詞を読み直す。
台所で涼む虎 私は川を流れてる
虎とは「私」自身である。つまり、台所という現実の中に「私」は生きながら、夢の名残に浸っているのである。
大分明瞭になってきたと思う。
そして同時に2番Aメロの構造も分かってきた。
あなたはいつも不安そうに 瞳の奥を輝かせて
夢の名残を追いかける 届くことは無いのにね
私はパリの白い虎 小さな素朴な好奇心
溶けかけた心を引っ張って
応える景色に胸がいっぱい
「あなたは〜」は自分自身の客観視であり、冷たく大人びた目線である。
これに対して並列される「私は〜」は、より主観的で、否応無く現れてしまう子供の心である。
この2つは、自分自身の中で同時にせめぎ合っている。だからこそ、「あなた」「私」「虎」という、自分自身を示す3種類の主語が交ざり合って登場しているのである。
虎とは、無邪気で我儘で刹那的、あるいは高貴なプライドを纏った存在の象徴であると言えよう。そうなると「山月記」の虎がやはり連想される。恐らく意識はしているだろう。
最後に、続く2番サビはこうだ。
いい加減旅するのやめて
裸になれたらいいのにね
日暮れにはあなたの声
「裸」と言ったらむしろ無邪気な子供のイメージに思えるが、しかし「私」は既に、子供の夢にしがみついている現状が「現実逃避」であると知っている。
裸になるとは、子供の夢を取り戻すことではない。自分の中の諦めの心を受け止めて、昔の夢に彷徨いながら現実の自分を疎かにすることをやめて、まっさらな心で再び歩き出すことを言っているのだ。
そしてそれはもう「子供」ではなく「大人」の姿である。
本当に残酷で、痛々しい主張だと思う。
いい加減邪魔するのをやめて
私になれたら それから
日暮れには誰も知らない
もはや「旅」=「邪魔」と言ってしまっている。旅が自分自身を本当は邪魔しているのだと悟った、ということだろう。
「私になれたら」…現実逃避をする「あなた」と向き合い、現実の「私」と一致したその時には…
「誰も知らない」と結ばれている。
すなわち、夢に囚われていた過去の自分には想像も尽かない新しい人生、新しい未来がようやく始まるのだ。
曲タイトルの「旅立ち」とは、「私」が旅するのをやめたことによって始まる、新しい自分自身の未来への「旅立ち」のことを指していた。
感想など
この歌詞のグロテスクな所は、「私」にとって「旅」がずっと魅力的であることである。
大人になるべきだと分かっていながらも、それでも「旅」は私を魅了してやまない。
日暮れには笛の音、日暮れにはあなたの声…現実逃避へ誘う声が甘く誘う。一方で、ようやく大人になれたその日暮れには、「誰も知らない」という不安。
人が過去の拠り所を捨てて未来へ進むという決断の重さを、決して軽い格言に終始させてしまうのではなくて、どこまでも苦しく描き切っている。
その誠実さこそが、この歌詞が訴える力の根本であると私は感じた。
そして、それを実現するために複数の主語を使い分けたり、所々現実味のある文言を挟んだりして全体に違和感と重さを作った種々の表現技術についても、レベルが高いと思った。
おわりです
補足
汚れた雲が流れてる
大体君はまだ未成年でしょう
これどういう意味?
これだけだと情報が少なすぎて正直分かんないが、色々解釈は出来そう。
例えば川を流れている「私」と「汚れた雲」の対応。「私」が腐っているという自覚を婉曲に表現しているとか。旅の情景はもはやただ美しいだけに映らなくなっているとか。
何にせよ「汚れた雲」という不穏な表現は、「私」の置かれたモヤモヤした状況の比喩であると思う。
「大体君はまだ未成年でしょう」とは誰が誰に言っているのか?全く不明だが、「私」が自分自身にそう言い聞かせて、まだ夢を追いかけて良いと自己を正当化しているとか。まだ若いんだから、と。
【音楽のメモ】妖怪フックオン(東方)
妖怪フックオンのベースラインについて
最近はトライトーンで異質に響かせる曲が多いような気がする
ベースラインのパターン①の例は「待ちわびた逢魔が時(虹龍洞)」にも出てきている
最後のシ音はVの1転由来だが、後半の変形では「シミラ」と進めて最後のラ音にメロディのレ音をぶつけて4度堆積にしてしまっていた
パターン②は最近のポップスでも時々ある456進行のドミナント緩和、46進行
攪拌そのままファに落ちるのかと思ったらさらにドに上がって2転で上行していって、最後に順次下降で事なきを得る
最後のドミナントに振って、その前を浮遊感高めて焦らす感じ
ただミレドシ…と下がった後ラではなくて普通にファまで落としてしまうのがまた東方っぽいような気がする
全体的に4度の音程をベース中心に取り入れて浮遊感を作っているなぁと感じました
かっこいいので真似したい
汚れた1円玉
乗り換えの駅で少し時間があったから、構内の売店に寄った。
つぶつぶの果肉が入っているジュースを取って、レジに向かった。レジは空いており、今日も何人もの客と応対したであろう、くたびれた女の店員さんが待ち構えていた。
いや、ここで「くたびれた」などと店員さんを表現するのは、あまり私の好みでは無かった。こういう場合須くくたびれているのは店員さんでは無く私の方であり、その心情を私が勝手に周囲に託しているのである。辞めたい癖の一つである。
「これ下さい」
「128円です」
財布を開く。ぴったり出せなかった。150円を出した。
ここでもし1万円札を出していたなら、それを見た店員さんの顔がみるみるうちに恐ろしい鬼店員…「烈神鬼(レジ鬼)」に変貌し、私はその場で八つ裂きにされても文句は言えなかっただろうが、150円程度の支払ならば特に問題もあるまい。そう思って、何も断らずに支払ったのだった。
予想通り、店員さんは特に何も怒ることも無く、お預かりしますと言って150円を収納した。
「22円のお釣りです」
10円玉2枚、1円玉2枚を渡された。
渡されたお釣りを受け取ろうとした時、「ん?」と私は怪訝に思った。
お釣りのうちの1枚の1円玉が、よもやまっとうな貨幣とも思われぬほど汚れていたのだ。
全体的に黒ずんでいるだけでなく、小学生が噛み倒した鉛筆の先っぽの如く、ガタガタの細かい跡が付いていた。
お釣りを財布に入れて売店を出た。駅を歩きながら、もし私がレジの店員だったらどうしただろうか、などと考えた。
おそらく、私にボロボロの1円玉が渡されたのは、レジ機が勝手にストックの中から自動で1円玉を出し、それがたまたまボロボロだったからであろう。
何が言いたいかというと、もしもレジ機でなく私自身が、レジのストックの中から2枚の1円玉を選んで出す仕事をしていたならば、ボロボロの1円玉をわざわざ取り出すことは無かったのではないか、ということである。
令和3年発行のピカピカ1円玉であれ、噛み跡だらけのボロボロ1円玉であれ、これが硬貨である限りどちらも同じだけの価値を持つはずだ。
一方で、人並みの美醜の感覚、清潔感をそれなりに身に着けている人間が見れば、ボロボロの硬貨を客に手渡すのは少し気が引ける。
だが、もしそうした気遣いを持って、汚い貨幣をお釣りとして出すことを避け続けていたら、どうなるだろうか。
次第にレジの中には、永遠に使われることのない汚れた貨幣達が溜まっていくことになる。お金の見た目の汚さが、結果的に貨幣の価値を損なっていくのである。
その点、レジの機械に自動でお金を出させるシステムは、誰を悪者にすることなく、ピカピカの1円玉とボロボロの1円玉を等価値に扱わせる事が出来る。
順番にお金を排出していくだけの機械には何の慮りも無く、1円玉は全て1円玉としての価値をもって操るからである。
人間の作業の機械化について、昨今は真剣に取り沙汰されることが多いが、今回の件のような形で恩恵を与えるような例もあるのだな、と気付けた。
すなわち、人間的配慮のようなものを除いたシステマティックな手続きに対して、その責任を宙に浮かせることが出来る、ということである。
もちろん、ピカピカの硬貨を選んで渡すような心遣いが、人間特有の「温かみ」として大切にされる場合もあろうが、そこらへんはケースバイケースで考えれば良いだろう。
重要なのは、日常の中の何気ない部分に、新時代のもたらす構造が見え隠れしていたということだ。世間が揉める大きな事案は往々にして程度問題に収まるものであるならばこそ、小さなレベルで起きている影響に目配せを付けていく態度が役に立ったりもするのかな、と考えたわけである。
人間の漠然とした心がいつまでも社会の胎動に複雑に絡んでいるからこそ、今日も私は面白く都市の駅中を歩いているのだろう。しょうもない物思いを一通りすると、決まって私は少しばかり上機嫌になる。喉が渇いた。
つぶつぶが入ったジュースは、そのまま開けて飲むとつぶつぶが沈殿してしまっているのでよろしくない。人生にこなれた私はシャカシャカと勢い良くジュースの缶を振り、プルタブに指をかけた。
ふと見ると、缶の側面には「容器内に窒素が封入されているので、開封前に強く振らないで下さい」と書いてあった。
ここで開き直って堂々とプルタブを開けてみせるからこそ、私は今日も人間なのである。
修学旅行のしおり
中学時代、修学旅行の夜に集会があった。
明日のスケジュール確認、安全に関する諸注意など、そんなような事を先生が代わる代わる話す会である。もちろん、今夜の宿泊に際して、きっちりお決まりのように釘を刺された。
私を含む生徒は、机に「修学旅行のしおり」を開きつつ、静かに話を聞いていた。
私はあらかじめ、自分のしおりにパラパラ漫画や名所の追加知識などを独自に書き込んで、自分だけのしおりを構築していた。
しおりの最後のページには、「おうちに着くまでが修学旅行です!」と大きく書き込んでいた。
そのページを開いて先生の話を聞いていたら、近くにいたY先生が、私の手筆の文言を見つけた。先生はニヤニヤとしていた。私は、半ば得意気に半ば恥ずかしそうに、先生を見返した。
Y先生は集会の大トリで話をする役だった。
先生の話は、内容はちゃんと真面目だが、どこか軽妙でユーモアに富み、明日へのワクワク感を掻き立てるようなものだった。普段から先生の語りには定評があった。
ところが、話の最後のシメに、Y先生は一呼吸置いて徐に言ったのであった。
「最後に皆さん、おうちに着くまでが修学旅行です!」
先生が放ったシメの一言は、大いにウケた。沸き起こる拍手喝采。
ユーモラスな言葉によって堅苦しい集会の終わりが告げられ、解放に向かってゆく皆の空気の中で、ただひとり、私だけが戸惑いの感情に狂わされていた。
(パクられた!)
Y先生のユーモアセンスは私も尊敬を置いているところだったから、そんな先生に私のユーモアが"採用"されて誇らしい気持ちも多少はあった。
しかしやはり納得のいかない気持ちが大きかった。
「Y先生最後、おうちに着くまでが修学旅行ですって言ってたじゃん」
「あれ僕のやつのパクリなんだけどね実は」
「パクられた〜パクられちゃった〜!参ったな〜」
「まぁ別に気にしてないけどね」
席を立ちながら、私は近くのクラスメイト相手にギャグの著作権をしきりに主張した。離れた所で立っていたY先生にもギリギリ届くかどうかくらいの声の大きさで、執拗に訴えた。
笑顔で、あくまでもパクられたことを心狭く怒ってるわけでは無いですよという雰囲気を出しながら、集会場所を出て部屋に戻ってもなお、私はクラスメイトに同じ話題をしつこく話した。その執拗さが何よりも私の心狭さを語っていた。
私の訴えを聞くクラスメイトも、そろそろしつこいぞという感じで、もはや適当なリアクションを取っていた。
ルームメンバーたちと大富豪を囲み、1つのゲームに皆のモチベーションが最も向いていることをやっと認識して、私はようやく自分の事を酷く惨めに省みることとなった。
環境やイベントによる気の弛みが、自分の中に顰む「しつこさ」という怪物をしばしば誘き出す。修学旅行の一件で、私はこのことに薄っすらと気付き始めた。
翌朝、皆が寝ている中、私はこっそり自分のしおりの最後のページを開き、例の文言を消しゴムで丁寧に消した。
修学旅行以来、Y先生に対してなんとなく苦手意識を持つようになってしまった。
大学生になって久々に母校を訪れ、Y先生に会った。先生は遠くの席から私を見つけると、袖で顔を隠しながらニヤニヤこちらを凝視してきた。全く笑えず、どういうユーモアやねんと思った。
Y先生のユーモアは、中学生くらいの年頃の子供にちょうどウケる匙加減になっていたのだということが、年を取って久し振りに彼のユーモアを見たことでようやく分かったのだった。失われた子供の純粋さなどと言われるものは、さしずめその辺りになるのだろうか。