夢日記

流体の人生

汚れた1円玉

乗り換えの駅で少し時間があったから、構内の売店に寄った。

つぶつぶの果肉が入っているジュースを取って、レジに向かった。レジは空いており、今日も何人もの客と応対したであろう、くたびれた女の店員さんが待ち構えていた。

いや、ここで「くたびれた」などと店員さんを表現するのは、あまり私の好みでは無かった。こういう場合須くくたびれているのは店員さんでは無く私の方であり、その心情を私が勝手に周囲に託しているのである。辞めたい癖の一つである。

 

「これ下さい」

「128円です」

 

財布を開く。ぴったり出せなかった。150円を出した。

ここでもし1万円札を出していたなら、それを見た店員さんの顔がみるみるうちに恐ろしい鬼店員…「烈神鬼(レジ鬼)」に変貌し、私はその場で八つ裂きにされても文句は言えなかっただろうが、150円程度の支払ならば特に問題もあるまい。そう思って、何も断らずに支払ったのだった。

予想通り、店員さんは特に何も怒ることも無く、お預かりしますと言って150円を収納した。

 

「22円のお釣りです」

 

10円玉2枚、1円玉2枚を渡された。

渡されたお釣りを受け取ろうとした時、「ん?」と私は怪訝に思った。

お釣りのうちの1枚の1円玉が、よもやまっとうな貨幣とも思われぬほど汚れていたのだ。

全体的に黒ずんでいるだけでなく、小学生が噛み倒した鉛筆の先っぽの如く、ガタガタの細かい跡が付いていた。

 

お釣りを財布に入れて売店を出た。駅を歩きながら、もし私がレジの店員だったらどうしただろうか、などと考えた。

おそらく、私にボロボロの1円玉が渡されたのは、レジ機が勝手にストックの中から自動で1円玉を出し、それがたまたまボロボロだったからであろう。

何が言いたいかというと、もしもレジ機でなく私自身が、レジのストックの中から2枚の1円玉を選んで出す仕事をしていたならば、ボロボロの1円玉をわざわざ取り出すことは無かったのではないか、ということである。

令和3年発行のピカピカ1円玉であれ、噛み跡だらけのボロボロ1円玉であれ、これが硬貨である限りどちらも同じだけの価値を持つはずだ。

一方で、人並みの美醜の感覚、清潔感をそれなりに身に着けている人間が見れば、ボロボロの硬貨を客に手渡すのは少し気が引ける。

 

だが、もしそうした気遣いを持って、汚い貨幣をお釣りとして出すことを避け続けていたら、どうなるだろうか。

次第にレジの中には、永遠に使われることのない汚れた貨幣達が溜まっていくことになる。お金の見た目の汚さが、結果的に貨幣の価値を損なっていくのである。

その点、レジの機械に自動でお金を出させるシステムは、誰を悪者にすることなく、ピカピカの1円玉とボロボロの1円玉を等価値に扱わせる事が出来る。

順番にお金を排出していくだけの機械には何の慮りも無く、1円玉は全て1円玉としての価値をもって操るからである。

 

人間の作業の機械化について、昨今は真剣に取り沙汰されることが多いが、今回の件のような形で恩恵を与えるような例もあるのだな、と気付けた。

すなわち、人間的配慮のようなものを除いたシステマティックな手続きに対して、その責任を宙に浮かせることが出来る、ということである。

もちろん、ピカピカの硬貨を選んで渡すような心遣いが、人間特有の「温かみ」として大切にされる場合もあろうが、そこらへんはケースバイケースで考えれば良いだろう。

重要なのは、日常の中の何気ない部分に、新時代のもたらす構造が見え隠れしていたということだ。世間が揉める大きな事案は往々にして程度問題に収まるものであるならばこそ、小さなレベルで起きている影響に目配せを付けていく態度が役に立ったりもするのかな、と考えたわけである。

 

人間の漠然とした心がいつまでも社会の胎動に複雑に絡んでいるからこそ、今日も私は面白く都市の駅中を歩いているのだろう。しょうもない物思いを一通りすると、決まって私は少しばかり上機嫌になる。喉が渇いた。

つぶつぶが入ったジュースは、そのまま開けて飲むとつぶつぶが沈殿してしまっているのでよろしくない。人生にこなれた私はシャカシャカと勢い良くジュースの缶を振り、プルタブに指をかけた。

ふと見ると、缶の側面には「容器内に窒素が封入されているので、開封前に強く振らないで下さい」と書いてあった。

ここで開き直って堂々とプルタブを開けてみせるからこそ、私は今日も人間なのである。